現代文明論 講義

<場所・日時>
札幌校舎 1999年 1月11日 木曜日 10:50-12:20 13:20-14:50
旭川校舎 1999年 1月12日 木曜日 10:55-12:25  

<時間>
講義 60分 +レポート課題 30分

1. 最近の就職状況

 昨年4月から就職部長としてみなさんの就職指導を行っています。
 近年の不況を反映し、極めて厳しい就職状況が続いております。 たとえば、今年の4年生の内定率は昨年12月末現在で、学部にもよりますが50%-60%。 この数字には、大学院へ進学する学生、就職を諦めた学生、卒業できそうもない学生は入っていません。 だから就職する意志はあるけど、就職先が決まっていない人が半分近くいることになります (この状況は道内の他の大学も同じ)。 でも、諦めず3月卒業まで、あるいは卒業後も頑張るように指導しています。 というのも、例年、年明けから3月・4月くらいまでには内定率90%くらいにはなるからです。 諦めなければ、まだ何とかなる時代です。(君たちが4年生になる頃に、どうなっているかは別として)
 実は、つい数年前までは、これ程、就職状況は厳しくなった。
まして90年のバブル崩壊以前は気楽なもので、企業の方から大学に誰か良い学生はいませんかと 押し掛けて来たので、就職部の仕事も楽勝だったそうです。
 こんな風に状況が変化してしまった背景には企業と学生の思惑のズレがあります。
企業サイドは、バブル経済の崩壊や、これにともなうリストラの嵐の中で、 今までのように、採用後に時間をかけて人材を育てる余裕はなくなりました。 だから入社後、すぐに使える人に的を絞った採用を行うようになっています。 採用活動も年々早まり同時に、通年採用や随時採用など雇用形態も変化してきています。 このため、就職活動を行う3年生、4年生の段階で、学生には、すでに大人としての自覚や行動能力、 将来に対する考え方、礼儀、コミュニケーション能力などが厳しく求めれられます。
 だから、従来の「一応、大学卒」には違いないということだけでは、もはや採用の対象になりません。 一体、何ができるのか?をはっきり、アピールできる、メリハリのある学生が求められています。 英語が得意なのか?コンピュータが使えるのか?スポーツが得意なのか? 何か特別な資格や経歴があるのか?専門知識(しかも企業にとって意味のある!)を持っているか? とにかく、何であれ、その学生を、他の学生から際立たせる、明確なポイントが必要とされます。
これに対し、学生の方は逆にますます、のんびりして来ている。 本人は気が付かないだろうけど、毎年、入学してくる学生を見ていると、年々、幼さくなっている。 一般的には大学1年生というより、小学13年生という感じ、 うちの大学の場合には、幼稚園の生徒みたいにかわいらしい子も少なくない。
 この背景には、超少子化の時代に生まれ、 ゆとりの教育の中でヌクヌクと育ってきたことも関係しています。 だから、そのままだと大学3年の就職シーズンになっても小学15年生で、いざ就職活動といっても、 え?誰が就職するの?なんで?ボクはどうしたらいいのという感じなり、 全然、踏ん張りが効かない。 お父さんやお母さんも、諦めが良くて、そんなに就職したくないなら、おうちに居なさいって感じで、 この頃は、就職の意思なく、なし崩し的にフリーターとなり、 気が付けば30歳、40歳は当たり前といった感じの人が増えております。

で、就職部長としては、企業サイドの厳しい要求と 学生サイドの甘ったれた要求の板挟みになって困ってしまう訳で、えーい面倒だ。 いっそのことこと、大学の先生なんか辞めて、自分のために、新しい仕事を探した方が、 早いんじゃないかと考えてしまいます。

2. 私自身の体験

(1)学生時代の就職活動
 で、もう一度、自分が学生時代を振り返って、だいたい君たちぐらいの時に、 何を考えていたのか、どういう風に就職して、いままでどうしてきたのか?考えてみました。
 私が学生だった頃というのは、今から25年以上も大昔で、ビートルズはまだ解散していなかったし、 学生運動というのが盛んで、デモに行って街頭で機動隊と衝突したり、 内ゲバといって政治的な意見の違いから学生同士が殺し合ったりして野蛮な時代でした。 大学で真面目に勉強する学生は体制側で超ダサク、 4年で大学を卒業して企業に就職するなんて恥ずかしい行為だと思っていましたから、 まあ、ストライキなどで、授業が殆どなかったこともあり、 大学には延べで2週間くらいしか行きませんでした。
 そんな状態ですから、将来、どんな職業に自分が就くのか、あまり考えたことはなかったし、 ネクタイを結んで、背広を着て、サラリーマンになるなどということは、 ぜんぜんイメージできなかった。この辺は、今の学生と同じかも知れない。 で、毎日、何をしていたかというと、写真を撮っていた。 大学の写真部はプロのカメラマンの先輩も沢山いたので、時々、 週刊誌やTV局のアルバイトも来た。 3、4年生になると、ギャラリーで個展を開いたり写真集を作ったりしていた。
 ところが4年生になる頃には、世の中が静かになってしまい、 石油ショックが起きて今と同じ大不況になった。これりゃあ、いつまでも騒いではいられない、 そろそろ自分の将来を決めなけれればとなった。
 で、とりあえず、大学院へ行こうと思いました。 これは今でも一番楽な選択で、大学院へ行けば学生生活をそのまま延長できる。 ところがゼミの先生に相談したら、お前は先生たちから嫌われているから、 誰も面倒をみないと言われ、諦める。 (今から考えると、自分の大学で嫌われても、他の大学の大学院へ行けば済むのに、 すぐ諦めたくらいだから本気じゃあなかったのだろう。) で、先生は、私の父が実業家であることを理由に、銀行に入ることことを勧めた。 政治学を専攻していたのだから、銀行の企画部や調査部の仕事なら君にぴったりだと言われ、 本人もその気になる。
 で、ある大銀行に面接に行ったところ、意見が合わない。 先方は、「まず新入社員は窓口業務でお金の勘定の仕方から学ぶ」といい、 私は、「自分がやりたいのは、世界の政治・経済情勢を分析して、 この銀行の将来戦略を立案することで、そんな、下らない事に興味はない。」 すると、担当者が、「銀行に勤めて十数年も立つけど、5年先のこともわからない。 大学を出たばかりでは、将来戦略なんか無理だ」という。 「私なら10年、20年先まで読んでみせる」と息巻いたら、 「他にも銀行はありますから、余所を回ってから、もう一度来て下さい」と言われ、 頭に来て銀行員になるのは諦めた。
 次にマスコミに入ってジャーナリストになろうと思い、TV局や新聞社を受けた。 本は沢山読んでいたし、文章を書くのは得意だったから、 学科試験はパスしたが最終面接で落とされた。ある新聞社では論説委員と喧嘩になる。 なぜジャーナリストになりたいのかと尋ねられたので、 「普通の野次馬は、警察が現場に張る綱の前までしか行けないが、 記者証があれば、綱をくぐって一番前で事件を見られる。 ジャーナリストというのは野次馬の代表だから、できるだけ無責任に事実を報道したい」 と答えた。論説委員は怒りで顔を赤らめ、「生意気なことを言うな」と怒鳴った。 実は、その新聞社の新卒採用特集記事に、「個性的かつ野生的な人材を企業は求めている」 と書いてあったので、そのつもりでアピールしたのだが。
 で、マスコミを諦め、次に広告代理店のコピーライター (広告の企画や、キャッチフレーズを考える仕事。糸井重里は、まだ有名じゃあなかった)をめざした。 これも学科はパスしたが最終の集団面接で落とされた。 グループ討論で、なぜコピーライターになりたいか、気の効いた理由を述べなさいと言われたので、 さっそうと手を挙げ、「小説家は沢山文章を書かなければならないけど、コピーライターは、 ほんの数行で済む。ストレスが少ないから、頭が禿げない!」。 で、よく見ると、審査員の中の一人がピカピカで、「そんなことないと思うよ」と、ぼそっと答えた。 彼がその会社のチーフ・コピーライター(会社を代表するトップのコピーライター)だった。
 という調子で、21歳の時に、21社の就職試験を受け全滅した (こういう人を就職部長にする大学も大学だが)。非常に暑い夏で、さすがに消耗。 そんなに自分には才能がないのかと、がっかりして死にたくなった。
 秋が来て、冬も来て、春が来て、いよいよ卒業となっても、就職先はなく、 それでも3月には学生結婚した(今の奥さんです。)。 実は、結婚指輪を買うためにフイルム売りのアルバイトをした、カメラ店の店長さんがいい人で、 ひょっとして、雇ってもらえないかと尋ねたところ、一応、検討しておきましょうという返事だった。 こちらも期待していなかったし、後で聞いたら向こうも冗談だと思っていたとか。
 で新婚旅行から戻ったら、葉書1枚の採用通知が来ていて、4月1日から丸の内のお店で、 店員として勤務できることになった。このカメラ店で、店員として、あいさつの仕方や、 レジの打ち方、お金の勘定、品物の仕入れ、値段の付け方、商品の並べ方などを教わりました。 また、会社の費用で通信教育を受け、東京商工会議所の2級販売員の資格も取りました。 いまでも、すぐにヨドバシでカメラを売れます。 何より、大事なことは、後で話しますが、働くことと商売の基本を、 ここで生まれて初めて理解したことでしょう。

(2)ドイツ留学と失業 
 この店で一年間勤め、その後、退職金と失業保険でフランスに行き、語学コースに参加。 そこでドイツ人の友達ができて、ドイツに留学して、もう一度、初めから勉強をし直すことに決める。 このため、一度、日本に戻り、今でいうフリーターをやりながら語学学校でドイツ語を学ぶ。 この間、ホテル・オオクラの花屋、首都高速の電光掲示板拭き、ゴーストライター、銀行の掃除など、 色々な仕事を体験した。
 で、ドイツに行って今度は真面目に勉強した。 最初の2年間は、父親に頭を下げ学費と生活費を出してもらったが、残りの3年間は、 奥さんと二人で、JTBのツアーコンダクターや通訳、翻訳、カメラマンなどをしてお金を稼いだ (100万円を貯金した)。
 で、めでたく博士号を職得、さあ、これで一人前だと思って帰国した。が、仕事がない。 最初の子供が産まれる。今度は、奥さんと子供の分まで稼がなけりゃならない。 昔の友達ルートで、TV番組や広告企画の仕事、翻訳などをするが、全然、儲からない。 で、そのうちに、あるシンクタンクの主任研究員の仕事が来る。喜んで飛びつく。
 ここでは原子力の多目的利用という犯罪的な国家プロジェクトを担当。 しかし1年もしないうちにイヤになり辞める。また失業者になる。 野村総研と三菱総研とか大きなシンクタンクに就職活動をするが決まらない。 最後に日本総研というところを受けて、また落ちるが、そこ所長さんが後で食事に呼んでくれ、 その席で「博士号があり、ドイツ語、英語、フランス語ができて、 しかもコンピュータの専門家でもあるんなら、シンクタンクなんかに勤めないで、 自分でやればいいじゃあないか」と言われる。 その時は、ただ頭に来て沢山飲んで酔っぱらってしまったが、あくる日、二日酔いで目覚めて、 「それりゃそうだ。」と気づき、早速、名刺を作る。
 ちょうどバブル景気が始まるところで、ニューメディアを利用した情報ビジネスや、 地上げがらみの地域開発の仕事がどんどん来る。収入はシンクタンクにいた時の、2倍、3倍と増加。 クライアントからの要望もあり、仲間と株式会社を設立し、代表取締役になる。 やがて出版社から本を出す話も来て本を4冊出す。大手広告代理店や印刷会社から、 企業の広報戦略の立案や、CI (コーポレートアイデンティ)ノの仕事も来る。 ほぼ5年ほどの間に100以上のプロジェクトをコンサルした。
 ところが、バブル景気が絶頂期になる前に、この仕事に飽きてしまう。 「だいたい、こんな下らない仕事をするためにドイツまで行って博士号を取った訳ではない。」 と、悶々し出す。で、うんざりしていた時に、松前紀夫元学長からお電話で、 「札幌に新しい学部を作るので来ませんか」とのお誘いがあった。 「残念ながら普通の大学に勤める気はありません」とお断りしたところ、 「いやあ、普通のではありません。面白い大学です」と言われ、魔が差して引き受けしまった。 確かに、色々な意味で「面白い大学」には違いない。
 という訳で、札幌に来て「面白い大学」の先生になってしまって13年、経ちます。 その間、会社の方は札幌に移転し、北海道の地域自治体の仕事などもやって、 それなり稼いで来ましたが、最近は文部省や厚生省からの研究費が沢山入り忙しいので、 会社は解散しました。(でも、時々、企業の依頼を受け、コンサルの仕事もやっています。内緒ですが。)

3. 職業と人生
 長々と古い話しをしましたが、このいう滅茶苦茶な自分自身の体験を踏まえてみると、 学生諸君には、次のようなことが言えると思います。

1. 自分が何をやりたいのか、また、 どのような職業に向いているのかという問題の答えは簡単には見つからない。 おそらく、死ぬまでわからない。だから、わかるまで待っていたら仕事はできない。

2.仮に自分ではこれをやりたいとか、自分はこの職業に就きたいとかが、はっきりしていたとしても、 そのとおりになるとは限らない。むしろ、例外と考えた方がいい。 (しかも、たとえスターに成れたって、幸せかどうかは、また別の問題だ!)

3. これに対して、非常にはっきりしていることは、 人は生きるために働かなければならないという事実だ。 (働かないと、お金が入らなず、お腹が減る。親はいつもでも生きていない。人は歳をとる)。 そして生きるための仕事は、世の中には沢山あるし、これを見つけるのは、それほど難しくない。 生きるための仕事では、自分が何をやりたいかではなく、人(社会)が自分に何を求めているか、 自分がどう人(社会)の役に立ててるかという問題に答えればいいだけです。

4. この生きるための仕事も決して楽ではありませんが、 そこで問われるのは、才能ではなく、努力だけです。 というのも、その仕事に向いているかどうかを決めるのは、自分ではなく社会の方だからです。 心配しなくても役に立たない人を採用し、いつまでも雇っておく会社はありませんし、 役に立たない商品やサービスを買う人はいません。 首になったり、その仕事に耐えられなくて辞める場合は、もっと自分を必要とする仕事を、 他に探せばいい。私の体験によれば、必ず、見つかります。

 ドイツ語には、職業とか仕事を表す様々な表現があります。
 きみたちがよく使うアルバイトという言葉は英語のWorkとかlabor に中ります。
Also los an die Arbeit! というと、さあ、仕事を始めよう!
Sie haben sehr viel gearbeitet. よく働きましたね。ご苦労様。
Das ist eine shone Arbeti. いい仕事・作品ですね。
という風に使います。共通しているのは、誰か他人のために労力を提供するという点です。 このアルバイトが、先に述べた生きるための仕事だと思います。 人は、生きるための仕事を通じて、他の人々の役に立ち、社会との連帯を保っています。 どんなに偉いアーティストも、学者も、政治家も、他の無数の人々の様々な仕事に支えられて生きています。 その意味で、職業に貴賤はありません。
 ちょっと別の単語にシュテレStelleという表現があります。 これは本来場所を意味する言葉で、勤め先を表します。
An welcher Stelle arbeiten Sie? あなたの勤務先はどこですか?
 日本でいう就職は一般に特定の会社への就社なので、このStelleという表現に近い。 会社に入るかどうかは別としても、働く場がなければ、人の役には立てません。 ですから、stelle大切ですし、それを見つける努力は必要です。 ただし、stelleが仕事をする訳ではないし、特定の企業や職場でなければ、 人の役に立てないというような馬鹿な事はありません。
 最後にベルーフBerufという単語があります。 これはある求人情報誌の名前として有名ですが、これは本来、転職ではなく天職という意味です。 rufenは呼ぶという動詞で、Beruf で神さまから、その仕事をするように命じられたという意味です。
 先に紹介した、自分が何をやりたいのか、 また、どのような職業に向いているのかという問題の答えは、この天職だと思います。 そして、天職は、人生の最後になって、もはや働けなくなり死ぬ時に初めて知るものではないかと思います。 「ああ、そういうことか、結局、これが自分の天職だったんだ」って。
 つまり、神様が決める問題で、人の知恵や努力で何とかなるものではないでしょう。

 という訳で、私も、まだ大学の先生や、まして就職部長の役職が自分の天職だと諦めてはおりません。 だから、この歳になっても、まだ、他に何か、 もう少し社会のお役に立てる仕事があるんじゃないかと探しています。
 大学生活は長いようで短いものです。みなさんも将来の仕事探しに備えて、今から準備を始めましょう。 ポイントは、自分が何をしたいか、何になりたいかではなく、社会や人のために何ができるか? どう役に立てそうかです。どんな小さなことでも構いません。 何もないと思う人は、そういう能力を身に付ける努力をして下さい。

ご静聴ありがとう。

課題:
講義で登場したアルバイトとベルーフの違いをまとめるとともに、 社会や人のために何ができるか?どう役に立てそうか、あなたのセールスポイントを3つ挙げなさい (セールスポイントがないと思う人は、大学時代に身に付けたい目標でも構いません)。

<講義概要>

 この講義では、まず最近の就職状況について、企業と学生のそれぞれのニーズの変化を紹介します。
 それから講演者の学生時代にタイムスリップして25年前の石油ショックの時代に、 どんな事を考えていたか?何をしていたのか、就職活動はうまく行ったのかという話をします。 いまさら、そんな昔の話は聞きたくないと思うかも知れないけど、ビートルズもまだ解散していなかったし、 けっこう笑えるし、学生生活の参考になるかも知れません。
 次にドイツに留学して戻り、また失業して、その後、会社を作ってコンサルタントとして、 お金を稼いでいた頃の話をします。起業家志望の人には参考になるかも知れません。
 最後に、この自分自身の体験を踏まえて、職業と人生について考えます。 自分の将来や職業で迷っている人、自分が何に成りたいのかイメージがわかない人、 面白いことがなくて退屈している人など、何かお役に立てれば幸いです。