本を読むのは楽しい。
淀川長治先生は「映画を見ないで呼吸していられる人間がいるなんて信じられない。」
とおっしゃているそうだけど、「毒書の愉悦(楽しみ)」
ともいうべき活字の魔術を知らない可哀相な人は意外に多い。
また、活字中毒を自認している程の人でも、単に活字の鉛に毒されているだけかもね、
というくらい貧困な読み方をしている場合も少なくない。
とりわけ、ハーバード流速読術などをマスターして
ヤケクソのシュレッダーみたいな勢いで本を読むような下品な奴とか、
読書は教養を高めると信じている小学校の国語の先生とかは、「豚に真珠」ものである。
僕の場合、読書は明らかに人生の貴重な暇潰しであり、最高の現実逃避だ。 それが証拠に夥しく本は読むものの、自分の専門分野である社会学の学術書は 絶対と言って良いくらい読まない。 いわんや学術論文をやである。仕事の必要上、どうしてもという場合は、 読むのではなく見るのであり、書見という言葉が相応しい。 だいたい、自分の専門分野の文献程おぞましいものはなく、眺めているだけでも、 嫉妬(僕はまだ自分の専門分野の本を一冊も出してないのに、この野郎は!) と恐怖(よくも、まあ、こんなにわけのわからんことを書けるものだ。まるで宇宙人じゃないか!)、 退屈(きっとインクに睡眠薬が混ぜてあるのだ!) と軽蔑(下らぬことをごちゃちゃと書き連ねおって)、 不安(結局、この程度のものさへ僕は書けない) と絶望(ついに専門著作もなく人生を終わるのかも) などなど、複雑な感情で頭はクラクラ、腸(はらわた)はグツグツ、凡そこれほどの有害図書はない。 というわけで、自分の専門分野を除けば僕は殆どすべてのジャンルの本を読む。これは気楽でいい。 「ふーむ、なーるほど、そうか」、「ひゃー面白い」、 「世の中には本当にすごく頭の良い人がいるのだ」と、素直に口を開け、 白痴のように心置きなく感動してしまう。つまり、自分の知的責任を無条件で放棄できる。 とりわけ、この点で特に良いのは著者がすでに死んでいる場合で、 あの世の人と張り合っても仕方なく、安心して尊敬できるわけだ。 特に天才と呼ばれた偉大な著者の場合は、殆どミーハー的な心情になり、本人の著作は元より、」 伝記や彼についての評論、ゴシップなど心行くまで読み漁ることができる。 たとえば、ルネ・デカルトが、やくざな秘密諜報部員でギャンブル好き、剣の達人であると同時に カサノバ並みのスケコマシでもあったなどという本を見つけると、気分はもう最高なのだ。 ドストエフスキーがドイツのクアオルトでルーレットで破産したとか、 僕と同じ癲癇の発作持ちであったとか、プラハのカフカの恋人とか、 カール・マルクスが極貧のロンドン生活のさなかに女中に手を出し子供を生ませ、 エンゲルスが引き取ったという美しき友情物語などなど、愉悦的エピソードは枚挙にいとまがない。 はっきり、言ってこの種の古典的天才は本人の著作より、その周辺の方が遥かに面白い。 また、チャールズ・ダーウインを巡る様々な人物と陰謀、彼の遺伝的素質、その後の子孫とか、 あるいは、また、ジグムント・フロイトに関わる様々なエピソードなどは、 もうシャーロック・ホームズ並みで、虚実が錯綜し、関連するノンフィクション、 フィクションがたくさんあって、止められない、止らないカッパエビセン的世界だ。 また、本人が書いた日記とか手帳の類も面白い。 例えば、コロンブスの航海日誌など読むと本人が死後の公表を意識し目一杯体裁を繕って 書いてあるにも関わらず、 毎日毎日黄金の国ジパングを求めて西インド諸島をうろちょろしてた、 極めて山師的実態は隠すべきもなく露呈しているし、 レオナルド・ダビンチの手帳を読むと、ライバルの悪愚痴や罵詈雑言だらけで、実に愉快なのだ。 この種の本を読んでいると、僕は時空を越え、 あらゆる時と場所に偏在し、歴史上の偉人天才の傍らで、 その肩越しニヤニヤしながら、ルイス・キャロルのシェシャ猫になったみたいな気になれる。 (余談だが、キャロルはできの悪いロリコン数学者であると同時にまた、優れた写真家でもあったわけで、 写真の中のアリスの怪しい魅力は最高だ。) 読書の楽しみの一つは、この時空超越性にあるのかも知れない。 実際、僕の場合、海外旅行に出掛けるより、本を読んでいる方がはるかに快適で楽しい。 いくら高い本でも、せいぜい1万円以下と安上がりである。 文庫本に至ってはたかが数百円で、地の果てはおろか、 宇宙の彼方へスッ飛んで行って絶世の美女と何する?(恋を語る)こともできる。 この点に関してはやはりSFが最高で、たとえば、カートボネガットの知られざる短編の中に、 地球から宇宙戦争に参加している兵士に不幸な伝令が届き、読者は妻子供が死んだかと思わせられるが、 実は「銀河系が消滅した」というオチで、宇宙的スケールの困惑に出くわすといったものもある。 また、ハイラインの「ヨブ記」などは、最高にいやらしくて実にイイ。 時間を越える楽しさについては勿論H.G.ウエルズのタイムマシーンも忘れられない。 さらに筒井康隆の最高傑作である「虚航船団」に至っては消しゴム、 鉛筆、三角定規の類が繰り広げる超未来の宇宙戦争であり、 これなどは「スター・ウオーズ」のジョージ・ルーカスが逆立ちしても映画化できない世界だ。 スリルとサスペンスの大冒険という点ではイアン・フレミングの007シリーズや ジュール・ベルヌの「80日間世界一周」まで?これもまた映画なんぞの比ではない。 また、ダシール・ハメット、チャンドラーなどのハードボイルドのねちねちした暗さもいいし、 フレデリック・フォーサイスの「ジッカルの日」の暗殺者や トム・クランシーの歴史学者ジヤック・ライアン先生の活躍なども捨てがたく、 時空を越えるというよりも、僕自身がまったく別のヒーローになって活躍してしまうのだから、 これはもう堪らない。 要するに変身願望の充足というものも毒書の魅力の一つで、 カブトムシでも山椒魚でも、人は本の中で何にでも変身できる。 またただ変身できるだけでなく、凡そ何をやらかしても罪に問われない点も素晴らしい。 人殺し、強姦、性倒錯、人肉食、なんでもOK。 この点お勧めはやはりギヨーム・アポリネール、アルフレッド・ジャリ、ボリス・ビアンなどの パタフィジシャンたちかも知れない。 ついでに元泥棒でホモの「綱渡り芸人」を書いた人も加えるか? あっけらかんとした猥せつ性という点ではまたヘンリーミラーもいいし、 わが日本が誇る井原西鶴の「好色一代男」も素晴らしい。また、中国の「金瓶梅」や、 アラビア人が書きバートンが翻訳した「千夜一夜物語」も捨てがたい。 毒書はまた、突然に稟とした態度を持つ人物の実にさわやかな生活感や逆におぞましいくらいに 堕落しグジグジした人間の生活感にひたってしまう亊も可能にする。 この点では僕が日本人であるせいもあり、明治以降の日本文学にまさるものはなく、 夏目漱石や森鴎外を読めば明治の立派な知識階級の気分になれるし、 単なる脳天気の熱血正義感になりたければ武者小路実篤を、 いじけたダメ人間になりたければ太宰治に勝るものはない。 また何か恐ろしく真剣なのだけど何をやるのか良くわからず混乱していたければ、志賀直哉。 陰険インテリ淫靡じじいになりたければ、川端、谷崎が良いだろう。 さらに清く貧しく左寄りの人生をゲテモノ食いしたけりゃ、これは僕の生活感とは対局をなすのだけど、 石川啄木や「蟹工船」を書いて特高警察の拷問で死んだ作家も悪くない。 やけくそ無頼漢インテリなら坂口安吾。 そして何といっても悩める現代日本を憂えるならば大江健三郎がいい。 これはもうコカインみたいなもので、僕などは過去25年間、この薬を常用してきた。 同じバージョンでアメリカのインテリ気分を味わうのならジョン・アップダイク、 少し攻撃的な方が良ければ、精神異常で自殺未遂のノーマン・メイラー、 ドイツ人なら、ハインリッヒ・ベル、ギュンター・グラス、 ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーってとこか? というわけで、「毒書の愉悦」に果てはない。
他にも、図書館の怪物ルイス・ホルヘ・ボルヘスみたいに分類不能の麻薬のような作家
(これを読み出すといつも完全にラリッて意識がブッ飛ぶ)など、など、など、書き切れたもんじゃない。
彼の「バベルの図書館」みたいなところで、本だけ読んで暮らす。そんな人生を送れればと思うが、
残念ながら現実は本の中のようには行かない。
・「人生に三楽あり。読書三昧。女三昧。酒三昧。」屬山人の言葉? この「毒書の愉悦」は「七つの大罪」というタイトルでシリーズ化してもよい。 釣り、映画、おしゃべり、睡眠、思考、書き物。現実逃避の大マニュアルにして、 「完全自殺マニュアル」に対抗しょう。 退屈だから死ぬなどという軟弱な奴らをぶちのめせ! 恋愛はどうする? 最近はないからなあ? (原俊彦 94-4-24/5-6) |