いわゆる境目(フレーム)問題について(2020年7月26日)
統計処理の細部、特に平均値などを求める場合の区間設定や有効桁数の処理など、若い時は細部の定義や計算処理について、細々と薀蓄を垂れる専門家を実に下らんことに拘泥する暇な奴らだと馬鹿にしていたことを思い出し、今となっては自分の未熟さが恥ずかしい(もっとも、その通りの人たちであることも少なくないが)。神は細部に宿るというが、思考の対象範囲を特定することは、大変、重要なことであり、基本的に人が何かを認識するという行為は、対象を背景から切り離し図と地を分けて考えることであり、この行為なくしては思考そのものが始まらないと、今では思っている。また、この事はコンピュータに限らず、情報処理一般におけるフレーム問題とも関係する(というより、そのものだ)。 統計処理も同じだが、対象とその背景との境目をどう設定するかは、基本的に認識能力と問題関心(おおげさに言えば生きる上での利害)による。両者の要素は互いに関係するのでまとめていえば、情報の操作性(Opertionability)による。 視覚情報については、マッハ係数というのがあり、この係数と計算式を使い、地と図の境目に輪郭線を引くことが可能だという話を新書で読んだ記憶がある。ただ、この方法は機械的に地と図を分けるだけなので、どちらが地で、どちらが図となるのかまでは判別できなかったと記憶している。案外、輪郭線の前後のコントラストで簡単に決まるのかも知れないが、少なくとも意味論的な区別は文脈性(コンテキストContext)がないと無理だと思う。 さらに境目問題が厄介なのは、仮に認識論的に境目を想定することが可能であったとしても、境目が存在する限り、その境目の境目という形で、新たな問題を無限に設定できる点にある。つまり、境目の精度(厳密さ)は操作性と文脈性)に依存し、基本的には無限分割可能であり、究極的には境目は存在しないというパラドックスが生じる。 たとえば、0から1までが連続しているとすれば、その境目は0と1なのだが、0そのものや1そのものといった究極の境目は定義できないし存在しないといえる。このため、せいぜい0と1を含むとか、0以上(0を含む)から1未満(1を含まない)とかの形でしか定義できないが、そのようにしても究極的な境目の曖昧さは残る。 実は、このことはコンピュータは元より人間や他の生物も含め、およそ認識一般に共通するフレーム問題であり、いわゆる客観的な現実を完全に認識することは不可能であり、我々が認識しうるものは、現実の写像(ミラーイメージ)に過ぎないことを意味している。それは現実が持つ無限の情報を縮約したものであり、現実そのものではない。 「このように書くと、プラトンのイデア論に登場する「洞窟に映る影」の比喩を連想するが、この場合、まずイデアがアプリオリに存在するのではなく、現実が存在し、その影としてイデアが生じると、逆に捉える方が正しい。そして、捉えうる影を操作することによって思考が成立する。