講義をめぐる闘い
●出席チェック
という訳で、ヤヤコシイ履修登録にはおかまいなく、新学期の授業が始まる。
大学のお授業の大部分は講義科目という奴で、これは比較的大きな教室(100人-200人)で黒板を前に先生がお話をするスタイルだ。一般的には、受講生が多く、参加する学生も学年や学科も多様な点が高校の授業とはやや異なる。
出席は原則として取るけど、取り方が高校などと違い、先生により異なる点も奇妙かも知れない。たとえば全員名前を呼び上げて点呼する方式もあるにはある。この方式の良いところは、学生の名前や顔を覚え易い(特に目立つ子は)、代返しない限りゴマカシにくい点で、僕も昔はやっていたのだが学生の人数が多いと、時間も掛かるし声も嗄れ、最初から授業がダレるので、まずやらない。
一方、大学が標準的に勧めているのは出席カードを配って、これに記入させて集めるという方式だが、これは記入する学生も面倒だし、それを回収して番号順に並べ替え転記する先生はもっとメンドーで、余程、律儀な先生しかやらない(僕が昔お勉強した早稲田大学では500人教室が標準サイズだったから、この出席のチェックは事務員がやっていたから可能だった。御山の上大学では、出席と取ることも重要な教育の一環であるという変な建前から先生のお仕事になっている)。
一番、一般的なのは出席簿を回して自分のところに○を付けさせ、付いていないところに先生が×を入れるという方式だ。これだと授業中に回覧するだけなので、授業の妨げにならないし集計も簡単だ。しかし、これだと誰かに○を付けてもらえば出席となるので、真面目に出席している学生とそうでない学生の区別が付かず、時々、その手のクレームが来ることになる。これを避けるために先生によって色々な工夫をする。よくやるのは、授業中に出席簿を見てランダムに質問し答えさせるという奴だが、そもそもイマドキの学生は授業中に質問されること自体嫌がる(目立つは死ぬよりキライ?)し、アテてもテキパキ答えないので、これをやると授業は間延びして実にシラケル。実際、名前を呼んでも欠席しているから答えないのか、単に面倒だから答えないのか区別が付くまでに時間が掛かるのだ。だから普通はやらない。
で、僕の場合はある先生から伝授されたサイン方式を使っている。これは記入欄の大きな出席簿を作り、自分の学生番号のところに、○ではなく、サインを入れてもらう方式だ。これだと他の人に代わってもらえば筆跡でわかるという訳だ。わざわざA3用紙が印刷できるプリンターまで購入して、この方式を始めたのだが、受講生が多すぎると、授業が終わるまでに全員のサインが集まらず、授業終了後にゾロゾロと学生が来て休み時間もなくなる騒ぎとなった。だいたい、毎回、違う場所に学生が座るので、200人近い名簿から自分の番号を見つけるのに時間が掛かる。遅れて来ると出席簿が回った後で間に合わないなどの問題があることがわかった。それで、出席簿を講義室の列とごにA,B,C,D,E,Fと分けて配布すると同時に、学生は毎週同じ列に座るようにさせたが、出席の悪い学生ほど、自分がどの列だか忘れてしまい、あちこちにサインを新設するので、学期末の集計が大変でイヤになった。先生によっては、サイン方式をとらずに、学生の座席を出席番号順にして、欠席すると、すぐ分かるようにする(座席指定方式)人もいる。実は、僕も一度試してみたのだが、ヤレ黒板が見えにくいの、前の奴がウルサイのと、クレームが多く馬鹿らしいので止めにした。
近年、急速に普及している新手は、コンピュータやケイタイ電話を使わせる方式で、授業中に、その日のパスワードを言って、そのパスワードで出席を送信して、コンピュータに集計させる方式だ。これはラクで良いのだが、パスワードを毎回決めるのが面倒(一度、パソコンの授業でやってみたが、巨人、阪神など思いつきだと、すぐにネタ切れになるし、予想できてしまう。先生によってはランダムにパスワードを発生させる人もいるが、これだと学生の方が大変だ)なので僕は採用していない。
出席に関しては、その他にも遅刻・途中退席・早退をどう扱うかという問題もある。これについては統一ルールがないので、先生の教育的?裁量に任されていて、「私がルールだ」という感じで、自分の遅刻は棚に上げて、自分より一分で遅い人は遅刻という人もいるし、面倒だから遅刻はなし(つまり授業終了までに現れれば良しとする)という人もいる。途中退席というのは、「ちょっとトイレなど」と言って出ていって、授業終了間際に戻る学生とかで、まあ早い話が舐められている訳だが、これに上手く対処できない困った先生もいる。早退は、そのまま戻らない場合や、出席を記入したらフケてしまう場合だが、後者はかなりいるようだ(板書している間に脱走する様子は、達磨さんが転んだをやっている感じで面白い)。
18年前に初めて大学で講義を持った頃は、何で大学の授業で出席なんか取るのだ。聴たくない学生は聴かなければいいし、講義に一度も出席しなくても試験で合格点を取れるのなら、それでいいジャンと思っていた。実際、僕自身も早稲田にいた頃は授業など出なかった(学生紛争の余波でストもあり、まともに出席したのは4年間トータルでせいぜい2週間くらいかな?)し、ドイツの大学では、そもそも出席という概念(何それ?物理的に講義に存在することにどういう意味があるのか)自体がなかった。
でも、長年、日本の大学で先生をやっている内に、出席を取ることで学生に少しでも授業を聴くように仕向けることはサービスなんだという気がしてきた。また出席を取ることで自分授業に対する学生の反応も分かる。さらにいえば、学生の生活の面倒を見るクラス担任などをやるとわかるのだが、成績不良の場合に、学力上の問題なのか、生活の乱れなのかを見極める上で、出席状況を見るのが一番わかり易い訳で、だから、最近は出席チェックは学生の精神衛生管理サービスの一環と考えいてる。
が、それにしても実に面倒だ。早くカラダにIC チップでも埋め込んでセンサーで位置確認するようになるといいなあ。

●講義
高校の授業と大学の講義の一番の違いは、その長さにある。何と言っても、文部科学省の標準に従えば90分、少々の居眠りではなかなか終わらない。まあ中には熟睡して講義終了も気が付かないとか、起きたら顔に寝癖が付いているとか、あるいは講義室から出ようとして足が攣ってヨロケルといったスゴイ学生もいるにはいるが。
だいたい、大学の先生は高校みたいに教員免許のようなものを持っている訳ではなく、教授法のような専門的なトレーニングなど受けていない。見よう見まねと言いたいところだが、他人の講義を聴く機会など、自分が学生だった時しかないから、遙か昔の記憶を辿りつつ、こんなもんだっけという感じで、無手勝流でやっている。当然のことながら、黒板に向かったまま、延々と聞き取りにくい独り言を続ける人もいれば、下を向いたまま、タダヒタスラ自分で書いた教科書を文字どおり読み上げる人もあり、実に多種多様。取りわけ問題なのは、板書技術の稚拙さで、ミミズのノタクルような小さな字とか、右上がり、右下がり、縦横斜め、縦横無尽で、僕なども夢中で喋りながらが、ふと冷静になって黒板を眺めて、「こりゃ、板書というより、子供の落書きだなあ」と感動してしまうことの方が多い。そういう意味で面白いのは、大学の黒板自体の構造で、大抵、超シネマスコープで200人教室だと十数メートルはあるから、その気になれば大壁画を描ける。古典的なタイプになると、それが上下、2段になっていて上げたり下げたりできるので、体力さへあれば90分、フルに書きまくることも可能となっている。
よく学生にもいうのだが、プロの古典落語家でも寄席で60分びっしり語って、お客を飽きさせない人というのは余程の名人だ。それをシロウトが90分、しかも1学期13回の連続講演をやるのだから、じっと聴いていても面白いハズはないのだ。まして、今の学生は、我々TV第一世代が学生だった時より、さらに集中力がない。だいたい、うちの子供がTVを見ているのを観察していると、TVを視聴しているというより、風景のようにボーと眺めているか、あるいは単なるバックグランド(目の前だからフォアグランドか?)と流しているだけだ。しかもちょっとでも面白くなければ、チャンネルなどは即切り替えてしまうし(いわゆるザッピンングという奴だが)、そもそもどんな番組であれ、見ながら何らかの感情的な反応が現れることはない。
大学で講義している時の学生の反応も全く同じで、眠っていたり、隣の子とお喋りしていない場合(僕の場合は怒るから殆どいないが)を除くと、大部分の学生は、ボーとしている。こちらを見ているようにも感じるが目線が死んでいるので不気味だ。どんな冗談をいおうと笑うことはまずない(時々、わざと寒い親父ギャグをやってみるが軽蔑さへ返って来ない)。正直なところ、コンクリートの壁に向かって話している感じだ。これを90分やるのは本当にツライ。
よく大学教員向けの講義活性化の教科書に「講義が一方通行にならないように学生に質問して話させる」などと書いてあるので、時々、思い出したように、こちらから質問してみるのだが、まるでTVの中の人がイキナリ視聴個人に話し掛けた感じで「なんだよ、こいつ?」という感じで、当てられた学生は実に不快そうな表情になり、ブッスっと睨み返すだけだ。それでもシブトク質問を繰り返すと、教室全体が凍てつく沈黙の中、しばらく経って「わかりません」と一言返すだけだ。「えーい」とばかり、次々に当てると、次々に同じ反応が返って来て、しまいには何を質問していたのかわからなくなり、「まあ、いいっか」ということでオシマイになる。先生によっては、ランダムに当てるのがイカンのだ、学生番号順にあてて、ちゃんと答えたら平常点などのインセンティブを与えるそうだが、マリンパークのイルカの訓練じゃああるまいし、そこまでしたいとは思わない。
こういう受け身の質問にも答えないくらいだから、当然、自分から質問するなどという芸当は期待できない。以前、ベテランの同僚の先生が興奮して廊下を歩いて来たので、どうしたんですか?と尋ねたら「学生が質問したんですよ。それも講義の内容に直接関係のある。」とカンドーしていた。「まさに奇跡ですね。」しか答えようがなかったけど、内心、大地震の前兆ではと不安になったのを覚えている。
というような状況なので、こちらとしては90分持たせるために、喋りまくり、書きまくり、広い教室を行ったり来たり、飛んだり跳ねたり(教卓とか教壇などという余計なものがあるために、時々、ぶつかったり、転げ落ちる人もいる)、スゴイ、エネルギーを使うことになる。 高校の先生などと比べ大学の先生は授業数が少なくラクだと思われいるが、この類のことを週に2回もやるのは精神的にも肉体的にもかなりの重労働なのだ。

●授業評価
で、最近の大学改革の嵐の中で、このどうにもならない大学の講義を何とかせよということになり、手を変え品を代え、色々な工夫が行われている。まず、そもそも人前で90分も話をするには無理のある先生を雇わないようにしょうというので、教員採用に当たって模擬授業をやらせる大学が増えて来た。しかし、問題は審査員の方で顔ぶれからして、まず審査員の審査が先ではないかというケースが多い。また先生相手ではわからないから学生も参加させようということになるのだが、こういう場面で、サクラとして動員可能な学生は優等生しかいないから八百長になる(そもそも標準的な学生は模擬授業などに興味はないし、あまりヒドイのを単位で釣って集めると、せっかくの教員候補が絶望して逃げてしまう可能性もある)。 それでも、この程度の事でも、どうにもならない人や、ブチ切れタイプを排除する効果はあるようで、最近の新任の先生は遙かにマシに成って来ている(まあ以前が酷すぎたからなあ)。
授業評価というのもやっている。これは毎学期の終わりに、学生がマークシートのアンケートに答える。「授業の内容は適切か?」「熱心さが感じられるか?」「板書は見やすいか?」など10項目ぐらい。通常、大いにそう思う、そう思う。どちらとも言えない。そう思わない、全くそう思わない、の5段階評価で、先生の通信簿のようなものだ。結果を集計して先生本人に返すと同時に、近頃は冊子にしたり、HPで公表したりしている。
この授業評価は、当初、学生の評価などアテにならないとか、労務管理だとか、教員からは非難ゴーゴーだったが、幸い?にも、学生の方の関心が非常に低く、今では年中行事化して毒にも薬にもならない空気のような存在になってしまった。で、それではイカンというので、導入段階では、単に教員本人の授業資質向上のための参考資料というハズだったものを、もっと勤務評定化して、昇進評価や研究費の配分、さらに給与・任期延長審査などにも活用しょうという方向になって来ている。
実は、私自身、この授業評価の導入段階では推進派で、とにかくやってみればいいじゃんと思っていた。で、やってみたら確かに1回目と2回目はそれなりの効果があり、結果を見て授業を改善できる先生はそれなり改善したのが、3回目ぐらいからはマンネリ化して役に立たなくなり関心を失ってしまった。というのも悪いのはわかったけど、じゃあどうせればいいか?という答えはないし、先生によっては生まれ変わって出直す以外ない人もいる。だいたい学生の方も、そもそも関心のない事を毎学期末、多くの授業でアンケートされるので飽きてしまい、イチオウ付けるという感じになっている。このため、勤務評定化が進むについて、学生に良い評価を付けるように圧力を掛けたり、マークシートを書き直す人など(噂に過ぎないと思いたいが)も出て来るようで、実に醜くオゾマシイ事になりつつある。ちなみに、この授業評価システムが発明されたアメリカでは、これが普及した結果、先生と学生の間で力関係が逆転し、昇進や雇用契約延長との絡みで、成績評価を甘くする人が増えてAAやAが乱発されることが多くなり、メチャクチャになっているとの報告もある。いずれにせよ、授業評価は評価される方もする方もいい加減だから、あまり頼りにはならないと考えるべきだろう。
で、授業評価では駄目だという話になり、教員同士の授業参観・相互評価、さらに主任教授や学部長などによる評価などへとエスカレートしつつあるのだが、ここでも問題は、では、学部長や主任教授は優れた講義ができるのか?あるいは、教授は助教授より、助教授は講師より、講師は助手よりマシなのかという点で、極めて心もとないので、この方向の改革は何れ破綻せざる得ないと思われる。

●E-ラーニングって何だ?
退屈極まりない大学の講義を少しでも改善するには、やっぱインターネットとマルチメディアの時代なんだから、もっと最新の情報機器を活用したらエエデナイカ?というので、このところ進められているのがE-ラーニングってえ奴だ。かって東京の山の手線がE-電と改称してヒンシュクを買ったのも忘れたのか、IBMのE-ビジネスのモジリなのか、とにかくE-ラーニングはイーらしい。
まず、例の講義要項(シラバス)をネット上にアップして、いつでも、どこでも、誰でも、どんな講義をやっているのかわかるようにしょうという事になり、これは既に殆どの大学で実施されている。無論、この電子シラバスは大学の宣伝と、各教員がちゃんと計画的に講義を進めているかの管理ツールとしても機能している。
標準的な内容としては、講義名、単位数、先修条件、担当教員、担当教員の研究室、開講学期・曜日・時限、教室、講義の狙い、教科書・参考図書、成績の付け方、そして13回分の講義テーマなどが載っている。まあ「計画は未定で決定ではない」から本当に講義がシラバス通り理路整然と進行するかどうかは別として、これを見ればダイタイどんな科目なのかわかるようになっていて、志望校で迷う受験生や在学生にとってはとても便利な代物だが、果たして彼らがどの程度をこれを読んでいるかとなると多いに疑問だ。というのも、入学前に電子シラバスを読んで大学を選んだとか、科目登録前にこれを参考に科目選択したという話は寡聞である。
だいたい電子シラバスにはその科目が楽勝かどうか、先生は恐ろしいか優しいか?などの客観情報がないからなあ。どうせなら在校生が取材して、面白いお勧め講義ランキングみたいなものでも出来れば良いのだが、無論、そこまでやろうという熱い学生もいない。せめて、ヤヤコシイ科目登録も電子化し、登録状況・過去の成績分布・学生評価などもリアルタイムで掲示して、その場で電子登録できるようにでもしないと駄目だろうなあ。
という訳で、残念ながら、今のところ「そんな事はシラバスに書いてあるでしょ!」、「どうせ自分も含めて誰も読まないものを何で毎学期更新しなけれりゃならないの?」という、先生のグチネタにしかなっていない。

●E-ラーニングの実践
で、電子シラバスから、さらに前進して、電子講義ノートという形で、毎回の授業内容や講義ノート、教材、課題、設問、参考文献、リンクなどもHPにアップするという事も始まっている。こちらは年2回どころか、ほぼ毎週更新しなければならないので、大変だし、アップするためのファイルの加工などもあり、まだ少数派だが、私の場合は担当科目が情報メディア系なので、すでに数年前から始めている。まあ、ヒマな人は一度ご覧になると良いが、これが至れり尽くせりの内容で、これなら講義など出席しなくても良いではないか?と思うのだが。そこが問題で、学生は安心して講義をサボる(どうせ後でHPみりゃあ済む)、ノートを取らない、課題をなかなか提出しない(後でまとめて出そう!)、というような由々しき事態が発生する。
実際、これをやるのは大変な手間だ。まず当たり前だが、講義ノートを準備しなければならない。以前から、講義ノートはワープロで作成しているので、これをカット&ペーストして、プラットフォームになっているウェッブ・シラバスの授業ページに編集して行く訳だが、文字化けやらレイアウト制限やらで悪戦苦闘する。さらに図表なども別ファイルでアップしなければならない。課題用のファイルも準備する。プラットフォームのシステム自体が発展途上なので、時々、ヒスを起こしたり、アップしたファイルが消えたりと、調整に手間取る。それでも1度作ってしまえば、次の年からは更新だけだから簡単だ!と思っていると、残念ながら講義日程は、カレンダーやら講義の進み具合やらで毎年ズレるので、その都度、内容の微妙な調整が必要になる。学生のレベルや関心は毎年低下しているので余計なところはカットしなければいけないし、情報メディア分野は変化のスピードが速いので新しい動きもフォローしなければならない。もっと厄介なのはウエッブ・リンクで、せっかく良いページを紹介していてもサイトが無くなってしまっては始まらないので、事前にテストして、必要なら貼り直さねばならない。
で、そんだけ手間暇掛けて、どんだけ反応があるのかといえば、受講生からは殆ど皆無で読んでいるなあという印象はない(試しにヘノヘノモヘジの絵でも載せて反応を調べたくなる)。確かに熱心に読んでくれる学生も僅かならいるのだが、そういう学生は、講義も真面目に聴いているしノートもしっかり取るので、従来の方法で何ら問題ないのだ。
それなら止めちゃうか?となると、学内ではなく学外からの反応があり、これが切れなくなる。たとえば、卒業生などから仕事の関係で非常に役に立っているので先学期分なども見られるようにしてくれといった問い合わせが来る(いつも進行中の学期の講義済み分しか公開していないから)。他大学の先生や学生、企業の人から時々激励のE-mailが来る。その他、何かの拍子に読んだ人が感激してくれたりすると、これは止められないなあという気になる訳だ。でも、これって大学の宣伝にはなるかも知れないけど、普通の企業倫理からいえば、メインのサービスを無料で第3者に垂れ流していることになるので、有料のお客様には申し訳ないことなんだけどなあ。
さらにやり始めてわかったのは、E-ラーニングの売りは、双方向性にあるのだが、これが案外大変なのだ。まあ今ところ肝心の学内の反応はイマイチなのだが、それでも課題のような形のものは点数ほしさに返事が戻ってくる(1つ課題を送ると5点あげるお約束になっている)。100人近い学生から、毎週、課題が戻ってくるのを、すべて内容までチェックするとなるとエライ時間が掛かる。確かに課題提出のチェックなどは紙よりスムーズなのだがコメントを書いたり、直しを入れたり、できの悪いのやら、何も書いていない空ファイルに再提出を命じたりしていると2時間ぐらいは、あっという間だ。さらに何らかの事情による〆切遅れやら、再提出の再提出なども発生するので、段々作業が遅れ、ぐちゃくぐちゃになって来て収集が付かなくなる。
当初はE-mailに添付ファイルで送らせていたので、研究室のメーラーが課題で満杯になり大混乱で、しかも集計も面倒だったのけど、今は、課題提出をウェッブ・チューブという別のプラットホームに移した(その代わり講義ノートとは別に、さらに課題用のページも作成しなければならなくなった)ので、いくらかマシにはなったが、それでも返事のやり取りの負荷は相変わらずだ。
むしろ受講生が増えるにつれて、点数のために一応課題を送ってくる学生の処理が増加し、コメントだって、ちゃんと授業を聴いているか注意深く講義ノートを読んでいれば必要のないものばかりで、仕方がないので、キーワードなど課題のチェックを自動化したり、コメントを定型化してスピードアップを図っているのだが、単にムナシイだけだ。
こういう状況からすると、E-ラーニングでは双方向性を生かしたきめ細かな個人指導が可能だということになっているが、本当にそうなのか実に疑問だ。だいたいE-ラーニングで個人指導が可能なのは、相手は少数でしかも受講生が熱心で優秀な場合だけで、そういう状況なら、ゼミ形式の対面対話式の方が有効だろう。強いていえば、相手が社会人や遠隔地に分散している場合だが、いずれにせよ教員の負担は大変なので指導できる学生数は限定されるはずだ。まあ大学院の博士課程ぐらいかなあ。でも、そうなるとTV電話なんかの方が良いかも知れない。
TV電話といえば、最近はネット上に VTRなどの動画も上げられるようになっているので講義ノートではなく講義の録画をアップする方式も始まっている。どんなものかとネットで先進事例を覗いてみたが、NHKの大学講座を思いっきり稚拙にした感じで正直なところ見るに忍びないもので、とてもマネる気にはなれなかった。まあ考えてみればわかるが、いくらハンディなデジタルVTRカメラの性能が良くなったといっても、スタジオセット無し、ライトなし、カメラアングル固定で、延々と録画したものが面白い訳がない。だいたい大学の講義がまだ何とか持っているのはライブだからで、シロウト話芸の録画ではモロにシンドイ。で、この点に関しては、全講義を録画するのではなく、眠っている学生を怒っている場面とか、アホな冗談を言ってシラケている場面などを撮り、講義ノートに挿入するなどして臨場感を出そうかと考えている(まあ、それだって準備が大変だけど)

●大学の講義の面白いところ
で、結局、E-ラーニングを反面教師として、大学の講義の面白いところ、あるいはおおげさにいえば存在価値ってなんだろうか?と考えてみる。
まず、良く講義中にも学生にいう(聴いていない)のだが、やっぱり、これはライブなんだという点だろう。1回90分の大学の講義は、払っている授業料からするとコンサート・ライブ(ただし1.5流のミュージシャンの)チケットと同じぐらいの値段(別項参照)なんだけど、この価値が先生も学生も分かっていない。だから、本当は90分、何とかお勉強の面白さをわからせようと、生身の人間が飛んだり跳ねたりしている、その臨場感を楽しまなければいけない。確かに大学の先生は、ミュージシャンほど魅力的ではないし、コメディアンほど面白くないかも知れないけど、でも高校の先生よりは遙かにバラエティに富んでいるし、世の中のフツーのサラリーマンよりは変わっている。ボンヤリ眺めているだけだと、何を言っているのか良くわからず退屈だけど、でも大学の教員である限り、その講義科目の内容に関しては、それなりのエキスパートなので、そこらのおっさんより遙かに知識は豊富なのだ。というか、そのテーマについては、同じような事を語れる人が滅多にいないからこそ、その人はその講義を持っている訳で、そういう意味では、ミュージシャンやコメディアンより遙かに貴重な存在なのだ。
で、そういう人が、ただの人である学生(子供?)を相手に飛んだり跳ねたりして何かを伝えようしている、その臨場感を味わうこと。可能ならTVを見ているように、ボーと眺めているだけではなく、発言したり質問したりして、一緒にライブに参加すると初めてコンサート・ライブチケットと同じぐらいの価値が生まれる。
そんな事いっても話はヘタだし難しいし退屈じゃんと思うかも知れないが、それはそれで仕方がない。でも、大学の講義の興味深いところは、その面白さに遅効性がある点で、学生の時は下らない・退屈だと思っていたものが、社会に出て何年も経ってから、「ああ、あの変な先生が一生懸命話していた訳のわからん事は、これだったのか」、「もっと、ちゃんと聴いておけば良かった」と思ったり、あの授業、今から考えると、すごく面白かったなあとか、そういう感じでジンワリ効いて来るものです。
そういう意味では、私もE-ラーニングなどという新奇な手段に頼らず、伝統的な板書とノートで、髪振り乱し、やる気のない学生とガチンコ勝負して、必殺5年殺し的な講義をめざすべきではないかと思っている。

研究室トップページへ